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リトゥルスター冒険と探求の旅 パート3

この地球に降り立つ以前の星という意味においては、私の魂の故郷は、プレアデスなのですが、なんと、プレアデス以前にも、私の魂の起源があるそうな‥‥!

~遠い星からやってきたお姫様~

 

リトゥルスター冒険と探求の旅 パート3

 

あなたはヒーラー!

聖なる女性性のアンマからのチャンリングは、私にとっては、興味深い内容が山盛りでした。

中でも、私にとって、とてもインパクトがあったのは、

「あなたは、ヒーラー!」というメッセージでした。

「あなたはヒーラー!」
私が、今年、はじめて受けたアンマからのチャネリングのメッセージに、

「あなたはヒーラーです!」がありました。

当初は、私は、ヒーラーの仕事をしているわけでもなく、

私が行っているのは、直観的なメッセージを伝えながら、

気づきと成長のサポートをすることで、

なぜ?私がヒーラーなの???という感覚がありました。

ヒーラーという言葉そのものが、私にとって、とても抵抗があり、

癒すのは、自分自身なのだから、

ヒーリングとは、それのお手伝いなのだわ!という思いもあって、

様々な角度から、”ヒーリング”を学んできたものの、

これまでの人生の中で、私は、

極力ヒーリングという表現を避けてきたのも、事実でした。

初回に引き続き、2回目のアンマのチャネリングでも「あなたはヒーラー!」

というメッセージが、繰り返されました。

アンマによると、私は、かつて、この地球の過去世において、

何度もヒーリングの仕事をしていたことがあるようなのですが、

当時は、ヒーラーの仕事に関して、悔いを残しつつ、

この世を去ったことがあるとのことでした。

私の目指していたヒーリングは、今も昔も、

魂に重点が置かれていています。

まずは、魂に光があたり、気づき、学び、

それから、本当の癒しが起こるというものだと私は、直観しています。

それゆえに、

2005年の今では、このような話は、受けいられることが可能ですが、

大昔の時代には、

表面上の肉体の癒しが、何よりも重要で、

魂の気づきと成長という究極的な癒しのプロセスは、

なかなか、理解されずらいものだったに違いありません。

アンマ曰く、「今回の人生において、ようやく、

自らが、心から納得のできるヒーリングの仕事ができる」とのことでした。

そして、私のヒーラーとしての役割と、イエス様との関係が、

大きな意味を持っているようなのでした。

イエス様からの贈り物

イエス様との関係性に関しては、1回目のチャネリングで、

予想もしていなかったいくつかのメッセージを伝えられ、

最初は、ひたすら驚いていた私でしたが、

その夜から、イエス様にチューニングをしながら瞑想をするうちに、

次第に、様々な事柄に光があたりはじめ、

おぼろげながら、チャネリングを通して語られようとしていた内容が

深いレベルで理解できるようになりはじめました。

2回のチャネリングによると、

幼い私の住んでいた村に、イエス様の一団が、訪れた時、

私は、そこで、はじめてイエス様に出会い、

イエス様が、私の両親に承諾をとって、当時で言うところの結婚適齢期になるまで、

イエス様の一団と共に旅をしていた時代があるのだということでした。

その時に言われたのは、

「あなたにとってのイエス様は、王冠をかぶったイエス様ではなく、お兄さんのような存在だった」と。

それゆえに、

「イエス様を思い浮かべる時に、あなたにとって肖像画は必要ではなく

ただ、心の中でイエス様をイメージすればよいのです」と。

そして、1回目のチャネリングの際に、こうも言われたのでした。

「今晩、瞑想で、イエス様にヒーリングについてたずねなさい」と。

その夜、私は、イエス様をイメージしながら、瞑想をしました。

そして、その時に、チャネリングで語られていたヒーリングについて、

私なりのイメージを受け取ったのでした。

それは、所謂ヒーリングではなくて、

無条件の愛のシャワーのような愛のあふれるヴァイブレーションでした。

私は、瞑想をしながら、これこそが、私が心の奥底から望んでいた、

ヒーリングのことなのだと、そう気付いたのでした。

高次元の存在とつながると、

私は、しばしば、あふれるほどの愛のシャワーに満たされます。

この時のなんとも言いようのない幸せは、

私にとって、ありあまるほどの至福の瞬間でもあったのでした。

私が、受け取った無条件の愛のシャワーの話を2回目のチャネリングの際に、

伝えると、それから先のヒーリングについて、

「直接、あなたが、イエス様に尋ねればよい」と伝えられたのでした。

私が、1回目のアンマのチャネリングで、

「今晩、瞑想で、イエス様にヒーリングについてたずねなさい」と言われてから、

現在に至るまで、人生で、これほどまでに瞑想を楽しんだことはないと思えるほど、

積極的に静かな時間を持っては、

私とイエス様との時代に思いをはせながら、深遠なる旅へと出かけました。

これは、今もなおも継続中です。

クライオンをきっかけにしたアンマとの出会いによって、

私の中に眠っていた、イエス様との新たな記憶の扉が開かれたのは、

まぎれもない事実です。

おそらく、昨年から、キリスト意識の目覚めにフォーカスしたくなりはじめたのは、こうした背景があるのだと今ではそんな風に思います。

私が、今、私なりに理解しているこれから私が行うであろうヒーリングとは、

ヒーリーングしてあげるとか、ヒーリングするというものではなくて、

無条件の愛のシャワーの通路、

あるいは、アンテナのような立場に私が立つことであり、

”私たち、1人1人の内にキリスト意識がある”ということに目覚めるための、

きっかけを作るためのヒーリングでもあるのだと、

今は、そんな風に感じています。

おそらくは、宇宙からのとてつもない愛のシャワーによぅて、

私たちは、身も心も純化されて、

大いなる宇宙の愛のヴァイブレーションの鼓動を

感じ受け取ることができるようになるのだと思います。

そうした時に、

私たちは、自らの内に、

キリスト意識(神的なエッセンス)が、

宿っていることに目覚め、活性化し、

すべてのレベルにおいての自分自身が、

肉体的な側面においても、感情的な側面においても、

さらには、メンタルな、あるいはスピリチュアルな側面においてさえも、

光輝き始めるのでしょう。

今回の私の人生とキリスト教について

今回のチャネリングで、私は、イエス様の時代に生きていたことがあり、

なおかつ、ある一時期、イエス様の一団と旅をしたことがあったという

あまりにも驚くべきメッセージを受け取って、最初は、本当に驚きを隠せませんでした。

そして、そのことにフォーカスすればするほど、

私は、様々な事柄を思い出しはじめたのでした。

私には、小さな頃から、イエス様と仏陀もアラーの神も、

きっと天界では、とっても仲がよいだろうに、

なぜ、地球上では、こんなに宗教間の争いが絶えないのだろう?

という疑問を持っていたものでした。

そして、いつも感じていたことは、

その後継者の時代になって、

自分たちの教えを守り広めたいという意識のなせるわざが、

最初は、純粋だった教えをだんだんとレベルダウンさせたのであろうと。

まだ宗教にはなっていない頃の、初期の時代のイエス様に直接、出会い、

旅を供にさせていただくという恩恵に恵まれたという

アンマからのメッセージによる

かつての私のそうひた時代の体験に思いをはせればはせるほど、

言葉には表現できないほどのありがたい気持ちと、

深い感慨の思いでいっぱいです。

私は、しばしば、多くの人生の中での体験は、

このアセンションというたぐいまれ時代に生かすためにこそ、

多くの過去の体験があったのだと思うことがあります。

イエス様と出会い、共に旅をし、

そして、多くの神秘に出会い学んだという貴重な体験は、

今というこのアセンションの時代にこそ、

必要とされているヴァイブレーションなのかもしれないと

直観しはじめています。

今こそ、その時代に学び、経験した

聖なる神秘を思い出し活性化する時なのだと。

私には、イエス様の行った奇跡に関して、

幼い頃から私が感じていたことがあります。

しばしば、キリスト教を批判する人々が、イエス様が奇跡を行ったのならば、

なぜ、ある人の目は治したのに、別の人の目は治せなかったのか?

という問いがなされることがあるのですが、

このことに関しては、幼い頃から、私なりの思いがありました。

それは、どのようなことかと言うと、

あと一歩というところまで、病の意味に気づき、光をあて、成長をしてきた人の場合は、

イエス様と出会うことによって、目が見えるようになるという奇跡がなされ、

病の意味に関しての意味や、気づきにまだいたっていない人の場合には、

たとえ、イエス様であっても、

瞬時に目が見えるように癒すことはなかったのだろうという思いでした。

それゆえに、外側から、同じような状況に見えていたとしても、

ある人と、また別の人の魂の気づきと成長の度合いは、違うということなのです。

このことに関しては、誰に教えられるともなく、

小さな頃から、おそらくは、キリスト教に関しての映画を見ていた頃から、

心の中で、そんな風に私は、感じてました。

これも、不思議といえば不思議で、

今回のチャネリングのことを重ねあわせて考えてみると、

きっと、私は、旅をしながら、いくつもの奇跡を目の当たりにし、

自分なりの理解をして、

その学びを今回の人生へともたらしてきたのではないかしらと思うのでした。

私の母は、とっても映画が好きで、本当に小さな頃から私は、母と一緒に、

たくさんの名作と言われる古い時代の映画を見てきました。

おそらく、この思いは、

小学生の頃に見た映画の中で、感じたことだったのかもしれません。

そして、不思議なことに、私の母は、私を産むとき、

主の祈りを心の中で唱えていたと言います。

母は、洗礼を受けていたわけではないのですが、

学生の頃に、プロテスタントの学校へ通っていた時代があって、

時々、自らの体験を話してくれたのを思い出します。

私の今回の人生において、

直接的なキリスト教とのかかわりは、小学校の1年になった時に、

家の近くに出来たプロテスタントの教会に行き始めたのが最初でした。

毎週日曜日の朝には、賛美歌を歌うのが楽しくて、小学校の6年間は、

本当に足しげく、教会に通ったことを思い出します。

毎週、教会でいただく、

聖書からの引用がされている言葉の書かれた、きれいなカードを集めることは、

小学生の私にとって、心おどるひそやかな楽しみでもありました。

そして、賛美歌を歌ったり、

透明な気持ちで、祈るということを味わうという意味において、

日曜学校は、私にとっては、貴重な時間でもあったのでした。

中学校に上がってから、日曜学校に出かけなくなってしまったのかには、

私なりの思いがありました。

そして、その思いが、ニューエイジと呼ばれる世界と出合った時、

これでよかったのね!と納得できたのでした。

それは、自分の井戸から水を満たしてもよいということでした。

私が小学生の頃に当時の教会で習っていた教えによると、

貧しい人々に出合ったなら、救いの手を差し伸べよというものだったのですが、

幼いながらに、私は、成長するについれて、大いなる疑問が湧いてきたのでした。

それは、私の育った環境は、ごく普通の家で、

超貧乏でもなく、また超裕福でもありませんでした。

とすると、都会に出かけると、たくさんの人々と出会うわけで、

なかでも、美術館に出かけた上野駅前などでは、

お恵みを!という人々に遭遇することもあったり、

自分よりも貧しい人と出会おう思えば、いくらでも可能で、

もし、その人々におこずかいを寄付してばかりいたら、

私は、いつまでたっても貧しいままでいなくてはならないということに、

小学生の私は、どうしても釈然としないものがあったのでした。

また、たとえ、子供といっても、懺悔のような時間もあって、

その時になると、1週間を振り返ってみて、

一生懸命、懺悔すべき悪い行いを探すということも、

自らを反省するという点においては、大切なことであっても、

とりたてて、悪いことをしていなかったにもかかわらず、

一生懸命に懺悔すべき点を探し出すということに、

多少の重苦しさを感じていたのも事実だったのでした。

ある時、彼が借りてきたビデオで、

大人になって、久しぶりに、

オードリーヘップバーンの尼僧物語の映画を再び見た時、

子供の頃にこの映画を見てもわからなかった

様々なシスターの生活の厳しさや、

驚くような尼僧たちの生活に、

あらためて、キリスト教が、時代を経る間に、

方向を変えてしまっていたことを痛感せざるをえませんでした。

この尼僧物語の映画の前半では、

若いシスターたちの日常が描かれているのですが、

はじめてヘップバーンの役である尼僧が僧院に入った時、

自らを反省し、懺悔するための鞭を与えられるシーンがありました。

それは、鞭といってもとても小さなものなのですが、

毎日、自らを反省し、もし、誤りがあったなら、自らをこの鞭で打ちなさいという

そのための鞭だったのでした。

懺悔、犠牲、天国と地獄、最後の審判などなど、

キリスト教が教え残したものの中には、

いまだに、それらを変容させることが難しいテーマが、

いくつも残っていることを感じます。

私は、小学校から、中学校へ上がるのを契機に、

私の日曜学校の時代は、終わりを告げました。

透明な気持ちを大切にして生きると言う点に関しては、

私にとって、教会は、とてもすばらしいギフトを与えてくれたことを、

今でも心から感謝しています。

そして、また、私は、

”自らの泉にまず、水を満たしてもよい”と教えてくれた、

ニューエイジ的な新しい考え方にも、

とても感謝しています。

ある時、私は、母と2人でイタリアに旅したことがありました。

メインテーマは、ミケランジェロで、

イタリアのみをまわるツァーに参加しました。

この時、本当にたくさんの教会や、遺跡、

また、ミケランジェロが残した、天井画や、彫刻を見ることができました。

夕方になりかけの頃、フィレンツェの大聖堂に入った時のことは、

今でも、とっても印象深く残っています。

あたりは、もうかなり薄暗くなりはじめていたというのに、

真っ暗な教会の中には、いくつものキャンドルがともされていて、

そのろうそくのあかりの深遠だったことといったらないのです!

ほの暗いはずの外の明かりが、

ステンドグラスを通して、部屋の中に入ってくることによって、

その明かりが何倍にもなって、

大聖堂の中で光輝いて見える光景だったのでした。

ステンドグラスは、こうして、光のマジックを演出してくれるのだと、

あまりの美しさと輝きに、目を見張ったのを今でも覚えています。

ステンドグラスと、キャンドル、

そして大聖堂の荘厳さは、

なんとも言えないほどすばらしいものでした。

自由時間には、フラ・アンジェリコの僧院を訪ねて、

受胎告知のフレスコ画を見たり、

システィーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画を鑑賞したり‥‥

大聖堂の鐘の響き、

石畳に響く音、

フィレンツェでの旅は、私にたくさんの思い出を残してくれました。

イタリアに魅了されるのは、

イエス様の時代のみならず、おそらくは、過去に何度も、

キリスト教徒として、生まれた時の記憶が、

なせる業なのかもしれないと思えます。

きっと母とも、修道院かどこかで、

出会っていた共通の時代があったのかもしれません。

今回のチャネリングを受けた後、

はるか昔のイエスさまの時代の私の両親とは、

もしかしたら、今の私の両親かもしれないと、

そんな気持ちがしてきました。

私の両親が、私にプレゼントしてくれた最大の贈り物は、

私の自由意志を尊重してくれるということだと、

そう私は感じています。

このことに関しては、人生の様々な局面においても、

親としても立場での意見を言うことはあっても、

いついかなる時にも、両親は、私を信頼してくれました。

そして、最終的には、私の自由意志を尊重してくれたことを思い出しました。

チャネリングにあったようなことが、事実であったなら、

当時の私の両親に了解を得た上でのことであったとしても、

私の本当の幸せ、成長を願うことができなければ、

幼い子供を手放してしまうなんて、

とうてい出来ようにないことのように私には、思えるのでした。

今回の人生における両親にも、

そしてまた、イエス様と出会ったという時代のかつての両親に対しても、

心からの感謝の気持ちを贈りたいと思います。

私は、おそらく、イエス様の一団と旅をし、

そして、そこでは、様々な深遠なる学びをし、

また、本当に数え切れないほどの奇跡を目の当たりにしながら、

愛のヴァイブレーションのシャワーに包まれていたのだと、そんな風に思えます。

今回、まったく、予期せぬ形で、

こうしたメッセージと出会ったことによって、

私の新しい時代のヒーリングの探求の旅がはじまったのでした。

ものごとを明確化するという能力について

また、2回目のアンマのチャネリングでは、

私には、ものごとを明確にする能力があるということも伝えられました。

これは、私自身、とっても不思議としか言いようがないのですが、

通常のセッションをしている最中にも、

なぜか、ぴこぴこっとわかってしまうことがたびたびあるのです。

そして、私のエッセンスの中には、

様々な事柄で、問題がごちゃごちゃになって、整理不能状態になっているのを、

交通整理する能力があるということも感じていました。

けれども、今回、伝えられたことによると、

将来、私は、体をイメージすると、

どこが滞っているのかや、

対処法などまでが、わかるようになるだろうとも言われ、驚いています。

というのは、今のところ、私には、

視覚的なサイキック能力は、まったく目覚めていないからなのです。

新しい時代に、

人々の体の状況や、対処法のサポートができたなら、

なんてすばらしいことでしょう。

ともあれ、今のことろは、自らの内側の声に耳を傾けるというこの大原則に則って、

私自身が心や体にやさしくありたいというのが、私の信条です。

(c)20051001 byディアナーラ

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